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安房酪農の歴史

-- 安房畜協40年の歩み(昭和63年9月発行)より転載 --

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安房酪農発祥の地『嶺岡牧場』
明治の嶺岡牧場
牛種の変遷
畜産組合の結成
製乳事業の勃興
嶺岡種畜場
大正中期 安房は一大乳牛地帯として成立
乳牛改良と共進会
乳牛販売
乳牛12,000頭、日産乳量300石



1.安房酪農発祥の地『嶺岡牧場』
 安房酪農の歴史は戦国時代の1500年代に国守里見氏が軍馬育成の目的で嶺岡牧場を創設したことにはじまる。
 嶺岡牧場は慶長19年(1614年)から徳川幕府の直轄となり、徳川8代将軍吉宗の享保12年(1727)に印度から献上された白牛3頭が放牧されたが、年々繁殖して、寛政5年(1793)から白牛酪が造られた。これが安房酪農の誕生であり、わが国酪農の発祥である。わが国酪農の発祥の地は嶺岡牧場である。

2.明治の嶺岡牧場
 嶺岡牧場は明治維新で政府の所管となり、明治2年の調査では馬387頭、牛122頭を飼養していた。その後明治3年にイギリス、オランダから輸入した牛5頭を放牧、下総よりも南部産の牛121頭を放牧する等、明治政府も牧場の振興に努めたが、明治6年(1873)に牛疫が発生し、牛268頭の内、僅か24頭を残してへい斃死又は撲殺するという惨状で、白牛は輸入後146年を経て残念ながら全滅した。
 その後嶺岡野付村落の有志が嶺岡牧場の経営を図り、明治11年に嶺岡牧社(資本金6千円、社長河野通三)を設立し、牧場を借り受け牛馬全部を払下げて事業を開始した。同社は南部種雌牛百数十頭や、洋種種雄牛、洋種雄馬、国産雌馬等牛馬を購入、さらに内務省勧農局より種雄馬、種雄牛の貸与を受けて繁殖・改良を進め増頭したが、後年経営上のことについて異論がおこって明治17年に嶺岡牧社は解散し、牧場は再び農務省の所管となった。
 明治20年以降牧場を再度民間に移して畜産の発展を期そうとする意向が台頭し、嶺岡周辺の有志が嶺岡牧場全域を借り受け(翌年払下げた)牛馬及び施設一切の払下げを受けて明治22年(1889)に嶺岡畜産株式会社が資本金5万円で発足した。社長山口辰次郎は直ちに渡米し短角種50頭及びホルスタイソ種雌雄2頭を輸入したがこれが安房におけるホルスタイン種輸入の端緒となった。その後会社経営は順調に進んだが、従来からの馬の繁殖は年々減少し漸次牛の飼育へ切換えられて行った。殊に最後の社長だった石田浦吾は熱心な乳牛論者で、大井地先の愛宕山麓に牛舎を建設し、本社を移して乳牛飼育へ乗り出した。これが現在の嶺岡乳牛試験場の位置であり、明治41年に同社は種牛の輪入計画をたて、同社が中心となって、農商務省に委託して、ホルスタイソ種雌雄3頭及びエーアシャ一種2頭をオラソダと英国から輪入した。同時にホルスタイン雌牛2頭が、民間へ輸入されている。
 このように嶺岡畜産(株)は安房の畜産界で先駆的な役割を果たしたが、明治43年には嶺岡牧場成立以来340年続いた馬の放牧を全くやめ、牧場用地のうち西牧に属する30町歩を残して売却、残った30町歩は明治44年県に寄付し、畜牛6頭及び施設一切を県に譲渡し、明治22年以来畜産の発達に偉大な功績を残して解散した。
 明治44年嶺岡畜産(株)は解散に際して30町歩を寄付し、旧嶺岡畜産(株)の施設一切を用いて県立種畜場を設置し畜牛の改良発達と指導に当られたいと要請をした。このことは由緒ある嶺岡牧場を安房乳牛改良の根拠地とすることに深い意義を感じていた石田社長以下株主一同の熱望であった。県はこの要請をうけ入れて会社の施設並びに種牛雌雄6頭を買い上げて明治44年8月4日干葉県種畜場嶺岡分場が発足した。当時本場は千葉郡都村で馬の改良指導を任務としており、嶺岡分場は牛の種畜場として出発したのである。

3.牛種の変遷
 明治20年安房郡の畜牛頭数は9,500頭に増加しているが、安房に於ける牛種は最初は南部系の和種であって、洋種といわれた乳肉系統の牛の飼育がはじまったのは、明治10年代からである。明治14年竹沢弥太郎が米国産短角種種雄牛1頭を飼養して在来の和種に種付を行い、また大山村山野井与惣右エ門外23名が短角種を購入して飼育をはじめたが、明治18年の安房国牛馬共進会には牛82頭の内洋種が22頭、1回、2由、3回雑種が57頭出品されている。
 短角種が特に普及されたのは明治20年前後で、明治22年額岡畜産(株)の山口社長が渡米して短角種50頭と同時にホルスタイン種雌雄各1頭を輸入、翌23年には安房種畜組合頭取であった竹沢弥太郎が渡米し、同種50頭を輸入して、これを郡内に販売し、或は農家に預託したことや、同組合が農商務省より短角種雄牛を借り受けて種付に供したり、その他郡内の有力な畜産家もこぞって同種を購入したので、短角種は非常な勢で普及し、明治20年代に牛種は短角種で統一された形であった。一部にはプラウンスイス、シンメソタール、エーアシャー、へレフォード等もわずかであるが飼育されていた。
 しかし、嶺岡畜産(株)がはじめて輪入したホルスタインや東京、横浜の牧場で同種の乳量の多いのが注目されて、早くもホルスタイン種への切替えを考えるものが現れて来た。明治29年には吉尾村白井直平が横浜の九十八番館より根岸号を移入して種付、明治30年頃には大山村山野井常吉が東京で米人が経営の牧場からホルスタイン種雄牛を購入して種付、同じ30年頃吉尾村の有志が共同で下総よりラデッキス号を購入して種付したのをはじめとして、大山農会、主基、嶺岡畜産等でホルスタイン種の種雄牛が供用され、さらに少頭数ながらホルスタイン種系の種雄牛も供用されて、一般の傾向は一時全盛を誇った短類種から明治30年代に次第にホルスタイン種へ移行して行った。
 明治40年安房郡長太田資行は郡予算に種雄牛購入費1,200円を計上し、ホルスタイン種2頭を購入、更に明治41年に2頭、42年に1頭の郡有種雄牛を配置したが、安房郡産牛組合でもホルスタイン種への牛種統一を図って、同種種雄牛を郡内に配置し、この外にも各町村で自ら購入して種付に供用した種雄牛もあり、短角種やその他雑種雌牛には殆どホルスタイン種の種雄牛が交配されて、明治末期には、ホルスタイン種による乳用化が一層進んだ。
 ホルスタイン純粋種雌牛の導入第1号は「第4札幌」号で明治34年に吉尾村落合朔治郎外2名が共同で北海道園田牧場より購入したが、明治30年代の後半から郡内の熱心な畜産家の中にホルスタインの純粋種雌牛を導入、繁殖する人が現れた。日之出号、プレンチベーツ、ベル・ファビオラ、第2アコマ等をはじめとして、明治42年にオランダより輸入したアールチェ、ウィーブルッフ、第3チールスマ等はこの時代の最も著名な雌牛であり、以後東京、横浜、小岩井農場、北潅道等より基礎雌牛の導入が活発に行われ、房州乳牛の基礎が作られて行ったのである。

4.畜産組合の結成
 明治17年(1884)長狭郡横渚村で農業談話会が開催され、畜産の改良発達を期するには牛馬共進会を開いて良畜奨励の一助とすべしという案が発議されて、翌明治18年に長狭郡大幡村で安房国牛馬共進会が開催された。安房の先人は牛馬136頭をひいてこの共進会に集まり、会期中に畜産集談会を開いて牛馬の繁殖改良を図ること、畜産組合設置の問題種畜設備の方法、牛馬市開設の問題等について、畜産発達への熱情溢れる論議をした記録が残っており、満場起立をもって畜産組合の設立がきめられた。また出席者の一人である石堂麟司より「牛は乳内用次農用を目途に改良すべし」という安房の畜産に対する遠大な提言がなされている。安房種畜組合は明治20年に結成され、第一種畜場を開場して記念の共進会及び「第2回畜産集談会」を開催、明治23年には頭取竹沢弥太郎が渡米して短角種50数頭を輸入し、郡内に販売或は預託した。
 安房種畜組合は有志者の同志的結合であったが、産業郡長と呼ばれて各種産業の振興に努力を惜しまなかった安房郡長吉田謹爾の発案で、安房畜産会設立の運動が開始され、当時の郡畜産界に於て有力な立場にあった人達が協力してその設立発起人となり、明治28年遂に安房畜産会(会長吉田謹爾)が結成された。安房畜産会は各地で講演会を開催し、或は共進会、比較会を開催し、或は種雄牛の飼養費を補助して以後11年間畜産の奨勅に努めた。しかし安房の畜産が漸く活況となってきたので、同志相はかり明治39年4月にその組織を改めて、安房郡産牛組合発起認可を申請し許可を得たので、11月に創立総会を開いて組合定款を議定し、同年12月組合設置が認可されて安房郡産牛組合が発足した。新組合の活動は極めて活発に行われて、安房の畜産、酪農の基礎が築かれて行ったのである。
 新組合も組合長には郡長を推し、副組合長は組合員より選出したが、明治40年以来郡より補助を得て種雄牛を設置し、その他事業の拡張を行った。明治42年には専任技術員として安仲就文を迎え、病牛の治療、畜牛の鑑定、飼養管理、改良の指導及び講習等に当らせたが安仲技師がまず取り上げたのは乳牛の改良方策として郡内の乳牛全体をホルスタイン種及び同系雑種によって統一することと、能力検定を行って優秀牛の繁殖奨励と劣等牛を淘汰すること、及び種雄牛政策の確立は乳牛改良の基礎的な問題であるが、個人では資力がないので組合有によって優良な種雄牛の増加を図ることであった。これら安房乳牛改良増殖の三大基本政策により郡有の種雄牛と、郡の補助を得た組合有のホルスタイン種雄牛を全郡に配置(明治44年末の調査で種雄牛はホルスタイン種42頭、ホル雑種26、エーアシャー種1、エーアシャー雑種1計70頭)することで、ホルスタイン種への牛種統一と、ホルスタイン種の増殖、改良が急速に行われ、明治44年には僅か587頭であった乳牛頭数は大正5年には4,250頭、大正8年には7,260頭と短年月のうちに驚くべき増加となって安房郡は大正中期に早くも日本では最も盛んな乳牛地帯となったのである。
 能力検定は組合検定と呼ばれ、泌乳検定規程が設けられて、明治45年4月30日に吉尾村大幡で第1号が実施されたが、これは継続した検定事業としては日本で最古の歴史を誇るものであり、漸くホルスタイン種がふえはじめた明治末期に開始されたこの事業は、大正年間だけでも検定頭数1,723頭に達するほど大規模に普及した。検定を開始した明治45年には1斗370であった最高乳量も、大正4年には2斗突破牛が現われ大正10年には2斗570、昭和3年には3斗331と次々と記録が更新されたが、この検定が安房郡に於けるホルスタイン種の繁殖、改良に果した役割は大きく、検定によって高能力牛が安房郡中に知られ、良い種雄牛との交配が行われ、また優良牛の導入や優良母系の繁殖が行われ、優秀牛が輩出して安房郡が長い間乳牛の産地として隆盛を続ける原動力となったのである。
 安房郡産牛組合はこの外主な事業として製乳器購入補助、講習会、牧草模範園の設置を行ったが、明治45年7月より常設の家畜市場を勝山に、定期市場を吉尾、鴨川、南三原、北条に設けて、牛の販路拡張を図った。記録によると開設より1年間の入場頭数は614頭であり、吉尾市場の大正4年の入場頭数は1,032頭を数えて活況を呈していた。
 共進会は明治41年に千葉県共進会(平群)、明治44年に千葉県庁竣工記念共進会(千葉市)、明治45年には千葉県畜牛共進会が大山村で開催されたが、大正4年には安房郡産牛組合の主催で千葉県共進会が勝山で、大正9年には安房郡畜牛畜産組合(大正4年改称)の主催で千葉県畜牛共進会が北条町で開催されており、共進会や比較会は組合の大きな事業として年々盛大となった。

5.製乳事業の勃興
 大山村竹沢弥太郎が明治12年に東京築地で牛乳店を開いたのをはじめとして、早くから東京へ出て牛乳販売業を開始した人も少なくなかったが、房州の乳牛は早くから京浜の牛乳業者に知られ、最初は分娩牛の賃借り、賃貸がはじまった。房州で分娩すると東京、横浜の牛乳屋ヘ賃貸しして一乳期いくらの金が入る賃貸しは明治20年前後からはじまり、一部明治末期まで続いたようである。
 明治26年北条町秋山正が1日2〜3斗の牛乳を館山から東京へ約3ヶ月間輪送したのが生乳輸送のはじまりであるが、明治28年牛疫まん延で東京市乳が不足した時に、山形県から上京した高橋銀太郎(後に房南煉乳の社長となる)は北条町で牛乳販売業を営んでいた荒砥道太郎に寄遇し、農家を廻って搾乳しこれを集めて館山港から汽船便で東京の牛乳商へ送ったが、4ヶ月で警視庁の取締りで禁止の憂き目に会った。その後明治41年に勝山の須田豊治郎、43年に勝山の石井米蔵、44年に中山豊吉等により汽船で生乳が東京へ送られた。
 明治26年東京海陸社が大山金束に安房煉乳所を設立したのが安房に於ける煉乳事業のはじまりであり、明治27年に大崩製酪所、28年に石田煉乳工場(吉尾村)、29年に真田煉乳所(吉尾村)、30年に高橋煉乳所(八束村)、同年岩井に福原煉乳所、同年頃北三原村こ三原煉乳所、35年に吉尾煉乳所、38年川辺製酪所(吉尾)、38年大島煉乳所(南三原村)、39年房北煉乳所(佐久間村)等をはじめとして、その後も大正初めまで各地に小工場が建てられたが、初期の製乳事業は小規模と技術が幼稚のため苦難の連続で、煉乳・製酪工場は興亡を繰り返し、まさに大試練の時期であった。
 しかし大正時代に入り、乳牛頭数、乳量共急速に増加し、また第一次大戦による外国産煉乳の高騰と不良品の発生によって、国産煉乳の需要が増大し、一方には機械の急速な発達もあって、会社組織による大資本の煉乳会社が設立されるようになった。房総煉乳(株)、日本コナミルク(株)、房南煉乳(株)、極東煉乳(株)の設立がこれで、これらは郡内各所に散在した製乳工場を合併し、或は買収して事業をはじめたが、茲に安房の製乳界は面目を一新し、最新設備の工場と強力な資本による経営となった。
 竹沢弥太郎の子竹沢太一(大山村)は安房の製乳界の不振は一に資本の過少にあるとし、大製乳会社の設立を企画し、同志とはかってまず磯貝煉乳所を買収して資本金7万5千円の房総煉乳株式会社を設立し、同年滝田工場を建設した。大正6年4月資本金を百万円に増資し(明治製糖(株)が資本参加し初めて乳業へ進出)郡内多くの工場を買収して傘下に収めた。また買収した小工場を廃止し、新工場の建設を企画し、館山、滝田、勝山、主基の4工場を完成し一大発展を遂げた。房総煉乳(株)は大正9年東京菓子(株)と合併、同社の製乳部となり、東京菓子(株)は大正13年12月に明治製菓(株)と改称されて資本金も500万に増額され、同社の製乳部として安房に確固たる基盤を築いた。(明治製菓の製乳事業は安房からはじまり、後に東京、東北、北海道へと発展して、昭和15年に明治乳業(株)となるのである)
 明治製菓(株)は昭和6年に新高煉乳(株)岩井工場を、10年に極東慄乳株式会社(大正11年に南三原、大正12年に勝山工場を設置)を、昭和11年には房南煉乳(株)を随次合併して、安房一円の生産牛乳の約90%を集乳処理して安房の乳業界に君臨した。明治製菓の乳業部門は昭和15年12月に明治乳業株式会社として誕生、安房には引き続いて勝山、滝田、主基、館山の4工場がおかれていたが、戦時統制により昭和19年12月に千葉県酪農株式会社が設立された際、4工場は現物出資されたのである。
 株式会社和光堂南海工場は昭和2年に極東煉乳南三原工場を買収して房州に進出、煉乳、粉乳、バターの製造を続け、戦時中は統制会社千葉県酪業(株)の委託工場として操業していたが、昭和22年再び和光堂直営に復帰、昭和26年7月森永乳業(株)に譲渡した。
 新高製菓(株)は昭和2年に岩井町に工場を建設、煉乳バターの製造を行ったが、千葉県酪業(株)に包含された。カルピス(株)勝山工場は大正7年に保田に小工場を設置、後日本煉乳(株)勝山工場跡を借り受け、乳酸菌発酵原料を樽詰でカルピス東京工場へ出荷したが、昭和17年戦争により休業戦後昭和23年6月に再開したが、24年8月工場を閉鎖した。

6.嶺岡種畜場
 明治44年に千葉県種畜場嶺岡分場として発足したが、乳牛改良計画に基いて輸入された第1号は大正2年3月にオランダよりのアイデアルであった。次いでフランスマックス及び2ウィリアムを大正2年にオランダより輸入し、3頭の輸入牛を主力として種付を行って大正初期の乳牛改良に貢献した。とりわけアイデアルは10余年にわたり供用されて、その生産仔牛は550余頭に達し、その遺伝力は極めて強く、娘牛の能力は非常な向上を示し二世種雄牛も数多く供用されて子孫を残した。
 大正8年に輸入されたダッチランド キングコルンダイク サディーベール(通称黒キング)は初めてのアメリカ産輪入種雄牛で大山村の石田浦吉(嶺岡畜産の社長をつとめた)が房州に日本一の種雄牛を輸入したいと念じて、同志の説得につとめ、安房畜牛改良会の結成にこぎつけ、郡会に於いて「嶺岡に優良種雄牛設置に関する意見書」を議題に供して満場一致で可決して県当局に提出、県は地元安房の熱意を認めて輸入価格の半額を地元寄付により、半額は県が負担することで輸入された(輪入価格13,000円、県費6,500円、安房郡畜牛畜産組合負担4,000円、安房畜牛改良会寄付2,500円)ものである。本牛は資質優秀で体型は大きく優美で、供用年数8年、産犢は517頭に達し、種雄牛も数多く生産して、優秀血液をあまねく郡内に伝えて酪農史上不滅の光を輝かせた。           黒キングに続いて、大正13年にキング ピーブ ローラ アーチス(通称自キング)、昭和2年に第8サー インカ メーとつぎつぎに日本のホルスタイン史上に残る名種雄牛が嶺岡種畜場に輸入され、これら三種雄牛の活躍によって嶺岡は黄金時代をむかえたのである。
 第8サー インカ メーに続き昭和8年にカーネーション コンテンダー、11年にカーネーション ガバナー プロスペクトが輸入された。

7.大正中期 安房は一大乳牛地帯として成立
 安房郡産牛組合(大正4年に安房郡畜牛畜産組合と改称)の組合有種雄牛政策によって、ホルスタイン種の優良種雄牛が全郡下各町村にくまなく配置されてホルスタイン種への統一が進み、明治45年全国にさきがけて開始された、組合検定事業も大正7年には512頭が受検するほど普及し、一方小工場で苦難の道を歩んで来た乳製品事業も房総煉乳等によって大工場に統合されて牛乳の販路も安定し、嶺岡種畜場の発足による優秀種雄牛の繋養もあって、大正8年には安房郡は乳牛頭数が7,000頭を越えて、一大乳牛地帯となった。ここに安房酪農の基礎が確立されたと言えるであろう。
 嶺岡牧場に始まり、明治時代には家産を投じての牛の導入、初めての外国からの輸入、何回も失敗を重ねた煉乳事業への挑戦、東京への牛乳輸送の試み、組合の結成等安房酪農百年史を見ると、一つ一つの歴史が畜産発展への情熱をかけた壮大なドラマである。安房の先賢がパイオニアとして明治時代の長い期間にわたり、苦難の道を歩み、努力を積み重ねた結晶が明治末期から大正初期に大きく開花して安房酪農の急速な発展につながったと言えるであろう。

8.乳牛改良と共進会
 温暖な気候に恵まれ、厳寒期を除いて一年中青草の繁茂する安房は東京、横浜という大消費都市、産業、政治、文化の中心に近い恵まれた立地条件の中で、日本では最も早くから発達した飼養密度の高い乳牛地帯となったが、とりわけホルスタイン種の導入初期から競って優秀な基礎雌牛を導入したことと、安房郡産牛組合による組合有優良種雄牛の配置、全国にさきがけて実施された組合検定の大規模な普及、さらに嶺岡種畜場や民間へ日本の乳牛改良史に残る優秀種雄牛が輸入されたこと等、乳牛改良の基礎的条件が整って、大正中期以後安房郡では全国的に稀に見る高度な乳牛改良が行われるようになった。
 改良初期のアイデアル、フランスマックス、第2ウイリアム等に次いで大正末期から昭和初期にかけて嶺岡種畜場には黒キング、白キング、第8インカ、ガバナー等、日本の乳牛改良史上に残して名種雄牛が次々と輸入されたが、民間へもカーネーションキングアガッジズ セジス、ニーバナ コルンダイク インカ ホームステッド、シュレーダー セジス オームスビー等が輸入されて、優秀な娘牛、息牛を生産した。これら種雄牛によって大正中期以後安房郡に於ける乳牛改良は一層拍車がかけられ、組合検定でも日量2斗を越える牛が続出し、最高一日乳量は大正10年には2斗570、大正11年には2斗744と上昇し、昭和3年には3斗313の驚異的な記録を樹立するに至った。明治45年開始一年目には僅か7升4合にすぎなかった検定牛の平均一日乳量も、大正10年には1斗523、昭和2年には1斗891、昭和4年には2斗016と遂に2斗の大台を越えたのである。
 大正9年の千葉県畜牛共進会には他府県から参観者があり、共進会を機会に他府県よりの購買者が相次いだが、大正15年には第1回安房郡産乳共進会が開催され、はじめて泌乳競争が行われた。第1回は最高2斗066であったが、昭和2年の千葉県乳牛能力共進会では、2斗008を記録昭和8年の第3回千葉県乳牛(能力)共進会ではカーネーションシュレーダーファビオラが2斗5升に達し観衆を驚かせた。第4回千葉県乳牛(能力)共進会は昭和11年に開催されており、第3回、第4回は千葉県種牛共進会及び安房郡産共進会が併せ開催されたが、昭和8年には合せて137頭が参加するほど、共進会は盛大になった。
 共進会の理想の姿として考えられる搾乳共進会が昭和初期に4回も開催されたことは当時の安房の酪農家の乳牛改良畜産振興への情熱の現れであり、偉大な業績として称賛されるべきであろう。前述の名種雄牛の息娘牛は体型能力とも共進会で、大いに活躍したが、安房のホルスタイン種は当時の日本乳牛界に於いて最高の水準に達したと言っても過言でないであろう。

9.乳牛販売
 乳牛販売は安房郡畜牛畜産組合の開設した吉尾、鴨川、南三原、北条、勝山の5市場を中心に行われたが、百年史では大正9年北条町で開催された千葉県共進会には他府県からも参観者が多く、共進会を機会に他府県からの購買も相次いだと記されており、酪農安房の名も漸く高まって、この頃から全国に乳牛を移出するようになったようである。
 共進会に上位入賞した種雄牛候補は他府県から購買され、農林省も優秀牛を買い上げられたが、いち早く乳牛産地として成立した安房郡ではホルスタイン純粋牛の繁殖育成は農家に高収益をもたらし、牛乳生産と種畜生産の二本立の安房の酪農経営は、その後も長期にわたって繁栄を続け、日本酪農の発展の過程で毎年多くの乳牛を日本各地へ送り出すことになるのである。
北海道の酪農振興計画が決り、牛馬100万頭計画という華々しい出発をしたが、大正14年から昭和7、8年頃まで安房から毎年200頭位、その間に2〜3千頭の乳牛が北見、十勝へ移出されて、北見、十勝の基礎になった。当時には満州、朝鮮へも房州牛が移出されたのである。

10.乳牛12,000頭、日産乳量300石
 このように躍進して戦前の黄金時代をむかえた安房の酪農は昭和12年の乳牛12,000頭、日産乳量300石(56.25t)最高記録を境として、戦争の激化につれ、飼料、労力、食糧、資材等の逼迫に災いされて漸次凋落の一途をたどり終戦時には乳牛4,000頭、日産乳量40余石に転落した。
 多年酪農振興のために、多大の貢献をして来た安房郡畜牛畜産組合も昭和19年8月戦時統制のため解体させられ、千葉県農業会安房支部畜産課としてその事務が引き継がれたのである。
 以上戦前の安房酪農の歴史の概要を記したが詳細については安房酪農百年史を参照されたい。